なんとかびより

都内のサラリーマンが書く雑記です。日々の出来事や考えたことなど

大人の夏休みの自由研究

夏休み 自由研究


朝いつも空気の入れ替えのために窓を開けています。今日の天気は晴れなのですが快晴とは言えません。時々太陽に雲がかかるような感じです。今日からセミが泣き始めました。ついに夏の到来ですね。普通ならこのあたりから学校の夏休みが始まるわけですね。ただ今年度はコロナの影響で1学期の開始が遅れて始まったところも多く、それによって夏休みが削られているところも多いと思います。現に私の地元もそうなってますもんね。これは教師も大変ですよ。

 

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ちなみに私の夏休みの思い出は小学校から高校までの記憶が色濃く残っています。皆さんはいかがでしょう。もうすぐ私は32歳になります。もう高校の最初の夏休みから2倍の時間経て多くの夏を過ごしてきたわけですが、今でも夏の思い出は小中高の夏の思い出がトップに君臨しています。理由を色々と考えていたのですが、やはり好きなことに没頭したというのが大きいのだと思います。小学校からミニバスのチームに入ってましたので、夏休みは朝から夕方までほぼ毎日練習でした。その時の蒸した体育館の臭い、そして学校に行くまでの小川の臭いは記憶に染み付いて取れません。人間の五感の中で最も感度が高いのが嗅覚であるというのはどこかで聞いたことがあります。やはりそういうことなのでしょうか。夏特有のそれに近い匂いを感知すると記憶の奥にある夏の思い出が湧き上がってきます。

 

多くの有名な小説、映画、漫画、アニメ作品で描かれているように、夏休みにこそ子供は大きく成長するものだと我々はどこかで思っているのかもしれません。こんなにも自由な時間がある夏休みです。好奇心旺盛な少年少女たちは日常とは違う何かを求め、積極的に身の回りのものを探索します。それは近所の森の探検かもしれません。また物理的な探検だけではなく、それは音楽や絵においての美の探究かもしれませんし、スポーツの技術向上への探究かもしれません。好奇心を満たすために自由追求していくことを総じて自由研究と読んでいます。特に子供の頃は目の前で起きている全ての物が珍しく映ります。子供の頃から人は好奇心を持っておりそれを捨てて生活することはできないものであり、大人になると逆に好奇心は徐々になくなってくるものだと思われています。

 

小学校や中学校の時「バスケは自由研究になんかならない。バスケはスポーツだから学問にはならない。」と思っていました。小学校の時、自由研究の宿題が面倒臭すぎて、母親がベランダに植えていた家庭菜園の野菜の観察を日記をつけてました。そもそもやる気がないので毎日ベランダに張り付いて観察などは一切せずに1週間くらいは基本的に変わらないから合計4-5回くらいベランダの野菜を確認してその間は「そんなに変わらないだろう」ということで図鑑や教科書に書いていることをパクりながら適当に想像で記入していました。

 

正直、今なら思えるのですが、バスケを自由研究にすればよかったです。何かを研究するということは、好奇心を満たすことだということに気づいた時はもう大学生の頃でした。子供は大人と違って頭の中に物事を考察する切り口や表現のレパートリーが圧倒的に足りてていません。子供の自由研究は子供と向き合う大人の根気強さも必要なのだと思いました。今の私が当時の私にアドバイスするとしたらこういうことを言ってみると思います。「バスケの歴史ついて、そしてさらに切り口を日本絞っていくとどうだろう。」であったり、「名選手の身長、体重、フィールドゴールのエリア別獲得数や確率などを表にしてまとめたら何か参考になる発見はないだろうか」であったり「NBAに選手になるのに確率が最も高い方法を探してみるとどうなるか」などが挙げられます。

 

本来ならそういう切り口がわかっている大人の方こそ自由研究を楽しむことができるポテンシャルがあるのかもしれませんね。子供のような探究心を持って課題と向き合い、大人の頭脳で分析する。これって起業家や研究者って感じですね。起業家に至ってはリスクを負ってまで物事を追求したいと思っているわけですから好奇心は本物ですよね。そして大人の自由研究の面白いところは、何と言っても世の中のためになれば好評価を受け、お金を得られるということです。あいにく自分にはそういう好奇心が爆発するような火種は持ち合わせていないです、っていう人も多いんでしょうね。(かく言う私もその一人ですが。)どうしても時間や資本や労力と引き換えになるので、実は火種は持っているけども頭の中のそろばんを弾くことで自らの手によって鎮火してしまっているのかもしれません。

 

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